日本二十六聖人記念館
長崎市中心部から北へ約60分
路面電車が走る街の中心部を離れ、バイパスを走る。いくつものトンネルを抜けて郊外へと車を走らせると、やがてサンセットロードと呼ばれる道路に出る。日本の西の端、日本で2番目に長い海岸線をもつ県、長崎の海は島々を抱きながらどこまでも続きます。
山あいにある
小さな集落、出津
250年の潜伏を支えた深い森の奥での伝道
禁教によって逃れてきた人々が暮らした
外海・出津地区。
キリシタン捕縛の手から逃れながら
布教活動を続けた信者たちが
暮らした地を訪ね、潜伏キリシタンに思いを馳せます。
知識 キリシタンが逃れた外海
1587年豊臣秀吉が発令した伴天連(ばてれん)追放令に始まり、10年後の二十六聖人殉教。江戸幕府が1612・14年に発布した禁教令。1637年に勃発したキリスト教徒の反乱、島原の乱後の厳しい弾圧と、幕府の役人によるキリシタンの探索は激しさを増していきました。海からの断崖が山へとそのまま続く外海は、身を隠すにはうってつけの場所でした。
出津の集落からつづら折りの道を登り続け、そこからさらに小道を登り下りすると、沢沿いに小さな小屋が現れます。ここを潜伏地の一つとした、外国人宣教師サン・ジワン神父の弟子バスチャンは、キリスト教の洗礼を受けた日本人伝道師。外海の山奥を転々としながら潜伏を続け、伝道を続けました。
辿り着くのもたいへんな山奥の場所でありながら入場料を取らない施設の維持・管理費用をツーリズムの一部で賄うことで、地域の人たちがこの場所を守っていく活動の一助となります。
バスチャンは、キリシタンが信仰を継承していくために欠かせない、キリストの生涯に関する祭式を一年に配した暦(こよみ)「キリシタン暦」を伝えました。また、潜伏キリシタンに希望を与える4つの予言を残し、その予言がいつか叶うことを夢見て、信仰を守り続けました。
その後も伝道を続けたバスチャンは、夕食の準備のために起こした火の煙によって捕えられ、3年3ヶ月の牢獄生活の末、二十六聖人と同じ西坂の丘で処刑されたと伝えられています。しかし、潜伏キリシタンによって受け継がれた予言は250年後、信徒発見という形で身を結ぶことになるのです。
バスチャン屋敷跡
住所:長崎県長崎市新牧野町1397-1